小林修士写真集『密会』

「撮られる」という欲望  飯沢耕太郎(写真評論家)
男が情事の相手の裸体を写真に撮る――というシチュエーションはそれほど珍しいものではない。谷崎潤一郎の『鍵』(1956年)には、当時日本でようやく知られるようになったポラロイド写真が登場してくる。またフランスの写真家、ベッティナ・ランスの『密室』(Chambre Close,1994年)は、全編がコレクターの「X氏」が撮影したとされるヌード写真で構成されていた。いうまでもなく、このシチュエーションが成立するのは、多くの読者がそんな願望(妄想)をかかえ込んでいるからだろう。小林修士の「密会」のシリーズも、そうした伝統的なテーマを踏まえたものだ。
だが、それは「撮る―見る」側の男性の性的な欲望にのみ奉仕するものなのだろうか。時々そうは思えなくなることがある。もしかすると「撮られる―見られる」側の女性にも、このように写されたいという密やかな思いがあり、むしろ、裸体写真は写真家とモデルとの共犯関係によって成立するのではないだろうか。そんなものは男性優位主義者の幻想に過ぎないと、世のフェミニストの方たちから断罪されそうだが、小林の作り出した「物語」には、たしかにそう思わせる力がある。 (小林修士写真集『密会』玄光社刊より )

 

-写真集『密会』冒頭-     私は妻が出かけている合間、しばしば関係を持った女性を自宅に連れ込んでいた。
情事に及ぶ前後の湿った空気の中、メッキの黒ずんだカメラを手に写真を撮る。
何か特別な目的があったわけではない。
ただお互いの楽しみのためだけに、彼女の肢体を、濡れた目を、乱れた髪を、汗ばんだ肌をフィルムに焼き付けた。
彼女はカメラを向けられることを拒まなかった。
それどころか、日頃知っている彼女からは想像もつかない大胆さで私を挑発してくるのだ。
この写真は私たちの秘められた関係の証拠であり、他の誰も目にすることのない、二人だけの秘密の記録だ。

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