七菜乃写真展

pre-verbal 七菜乃写真展
10月2日(金)~18日(日)|月火休廊|13時~19時

この春、私はジョージアに滞在し、その途中でポルトガルとスペインへも足を伸ばした。

現地の言葉も英語も話せない私は、会話の多くを翻訳機やAIに頼っていた。言葉は何度も変換され、意味は揺れ、その正しさを確かめることもできなかった。

それでも、何も伝わらないわけではなかった。

翻訳された言葉よりも、その前後にある沈黙や表情、距離、空気の方が、私の中に強く残っている。

思考は、言葉になる前からそこにある。

人は何かを感じ、そのあとで言葉にする。けれど、言葉になった瞬間、それは少しだけ別のものになる。写真もまた、言葉になる前のものを残すための行為なのだと思う。

今回の旅では、裸だけでなく、街、窓、部屋、花、動物、景色、何気ない時間にもカメラを向けた。

そのことで、私の目線は何も変わらないのだと気づいた。

服を着ていても、裸でも。
そこに人がいても、いなくても。

私が見ているのは、光であり、空気であり、その手前にある存在なのだと思う。

私にとって裸は、着衣のひとつにすぎない。本当は他の着衣でもいい。ただ、服には性別、年齢、役割、時代、職業など、多くの意味がつきやすい。

私は、その手前にある存在を見たい。

裸というだけで、作品が別の意味で受け取られることがある。展示の告知ができず、SNSに載せることも許されないことがある。身体には、社会が作った強い線が引かれている。

けれど、裸はただの裸でいい。

身体は、ただの身体でいい。

身体、性別、年齢、国籍、役割。そうしたものに貼りついた固定された概念を、私は写真で少しずつほどいていきたい。

私が撮りたいのは、裸そのものではなく、存在だ。

光の中にいる人。
言葉になる前の思考。
名前をつける前の感覚。
固定された概念が、少しだけほどける瞬間。

言葉が通じても、通じなくても、見えてくるものは本当は同じなのかもしれない。

ただこの旅では、言葉が届ききらない場所にいたからこそ、そのことを少しだけ確かめられた気がしている。