瓜南直子展

瓜南直子展 (NAOKO KANAN)  4月1日~23日

惚恍(こつこう)の物語に遊ぶ (金田一好平/アートライター)
老子によれば、「夷」、「希」、「微」というものがあって、それはそれぞれ「視ようとしても見えないもの」「聴こうとしても聞こえないもの」「捉えようとしても得られないもの」とあります。これらは追いかけても無駄で、結局「無」に戻ってしまい、その状態を「惚恍(こつこう)という」ともあります。瓜南さんの作品も、そんなところから生まれてきたものなのでしょう。彼女の作品には必ず深い物語性がありますが、そのお話はきっちりとした四角四面なものではなくて、それこそ夢の中を歩くようなもので、横にそれたり上に飛んだり、ぐるっと廻って同じところに顔を出したりするような物語です。「日本からはじまって中国に渡ったはずだけれど、いつのまにか……。でも、やっぱり日本かな?」。溜息で飛んでしまうように朧げな、ゆったりとした登場人物が棲む世界は、ひょっとしたら作品を観たひとの心の世界なのかもしれません。今回の10点程の作品には出版物の表紙になったものもあり、再度のお目見えという方もいらっしゃるかもしれませんが、このような時世だからこそ、夢の世界にしばし渡って、物語を追いかけて「恍惚」とすることも大切なことと思います。

もう一度 蜻蛉島の美しさを。(文/瓜南直子)
 
孤児のような気持ちを味わっていた。
ながい間、私ひとりが薄寒い現代にぽつんと生まれ落ちた気分でいた。

いっそ明治の半ばに生まれて、先の戦争の前に死んでいたらよかったのに、などと思ってもいた。
子供の頃から古典や歴史が好きだったけれど、それは記された遠い物語であり、
いくらその世界にあこがれても、入ってゆくことはできない。
書物の中に、なつかしい匂いを嗅ぐほどに、私は寂しかった。

しかし二十年ほど前、ある小説を読んだのをきっかけに、
自分が立っている時代から、地続きに時代を遡ってゆくコツをつかんだ。
コツさえかつめばしめたもの。
はずみをつけて明治から江戸、室町、平安…と遡って行った時、
私は自分の体内に流れている日本という大いなる河を感じた。
 
太古からの幾百層にも重なった時代のどこを掘り起こしてみても、
そこに自分に似たものを見つけることができるようになった。
万葉集や風土記、閑吟集、絵巻物を開けば、私の声でうたう人がいる。
時には、虫やけものや魚だったり、老人や子供、何かの化身だったりと、姿をかえていても。
 
神話の時代から、緑と岩清水に造形された、この奇跡のような島だけが持つことができたものがある。
その感覚は誰もの内の深い処で、たしかな記憶として眠っている。
それを掘り起こし、紡いでゆく。それが私の仕事だと思っている。
そして、私が描くまでのながいながい「時」そのものを、絵の中に棲みつかせたいと思う。
誰もが共有する内なる感覚にうれしくなるように。

語り部のように物語を記し描いてきた祖先の末裔として、私はまだ語られていない、いわば拾遺を描いてゆきたい。

今回展示している中に「封印」という作品がある。
これは、面の中に閉じ込められていた娘が、まじないを解かれて初めて自分の目で世界を見た、と言うイメージを描いた。
彼女の眼にはどう見えるのだろうか、沈みそうなこの蜻蛉の島は。
 
どうかそのまっさらな目で、蜻蛉島の美しさをもう一度、島の人々に伝えておくれ。
 
ここは、月と「かな」に護られた島だと、教えておくれ。